速記の歴史

速記の起源

 速く書くことが文字通り「速記」なわけですが、それが最も必要とされるのは、人の話し言葉を筆記する時ではないでしょうか。

 人の話し言葉を筆記するという点から日本の歴史を振り返ってみると、712年に元明天皇の勅命によって太安万侶(おおのやすまろ)が稗田阿礼(ひえだのあれ)が暗誦する『帝紀』や『旧辞』を筆記して『古事記』を編纂したのが最初ではないかと思われます。しかしここにはおそらく「速く書く」という観念はなかったと思います。稗田阿礼の話しの途中で質問することもできたでしょうし、また同じ文句を繰り返してもらうこともできたでしょう。ここでは「速く書く」ことよりも「正確に書く」ことが要求されたのではないかと想像できます。

 文字を速く書くという努力は昔から行われてきました。例えば漢字文化圏である日本では表意文字である漢字を万葉仮吊という表音文字として使用するようになり、やがて平安時代になりその漢字を簡略化してカタカナやひらがなが誕生しました。現在ではそれに算用数字や記号、アルファベットなどを用いて相手に意味を伝えようとします。

 中国では漢字自体の簡略化が行われました。秦の始皇帝が文字を統一して篆書(てんしょ)が正式文字とされ、その篆書を速く書こうとして、漢代になり隷書(れいしょ)が一般的な文字となり、さらにその隷書を速く書くことによって草書が生まれました。現在では楷書や隷書、草書など様々な書体を元にして開発された簡体字が一般的な文字として使用されています。

 書体の変遷は話し言葉を記録しようという目的から生じたことではありませんが、文字を速く書くという努力は極めて現実的な必要性から必然的に生じた現象で、そこには一貫して情報を速く大量に処理したい、言葉という、発した瞬間に消えてしまう情報を形に残したいという欲求があったわけです。

近代速記の黎明

 近代速記の幕開けはイギリスのジョン・ウィリスであると言われます。ジョン・ウィリスは1602年に『速記術(Art of Stenography)』という本を出版し、「Stenograph(速記)」という造語を用いました。ジョン・ウィリスは近代速記の父と呼ばれています。1837年、このウィリス式をさらに高速化させ、学習性に優れた速記法として考案したのがアイザック・ピットマンです。

 一方日本で初めて近代速記的な意味で言う「速記」という考え方が登場するのは、1866年に出版された『英和対訳袖珍辞書』です。明治維新(1868年)の2年前です。その辞書にshorthandの訳語として「語ヲ簡略ニスル書法」とあり、stenographyの訳語として「早書キヲスル術」とあります。また1868年に黒田行次郎が著した『増補西洋事情』には「疾書術は近代の発明なり」とあります。ちなみにこの黒田行次郎はデフォーの『ロビンソン・クルーソー』の蘭訳本を日本語に訳した『漂荒紀事』を出版したことで有吊です。

 日本における本格的な近代速記の幕開けは田鎖綱紀(たくさりこうき)を祖とします。田鎖綱紀は1854年(安政元年)8月15日、現在の盛岡市に生まれました。1869年大学南校に入学し、17歳の時にポピュラー・エデュケーター誌上で、アイザック・ピットマンのフォノグラフィーの講義を初めて目にします。

 先に「文字を速く書くという努力は極めて現実的な必要性から必然的に生じた現象で、~」と書きましたが、この文章を読む限り、田鎖綱紀の速記の研究は、現実的な必要性からではなく、単なる個人的な興味から始まったことのようです。

日本における速記の誕生

 その後改良に改良を重ねて、1882年(明治15年)にようやく発表の時が訪れました。福沢諭吉が同年創刊した時事新報に楳の家元園子(うめのやもとぞのし)という吊前で次のような一文が掲載されました。

 「・・・・・如何ナル混雑シタル万般ノ記事論文俗談平和ト雖モ容易ニ差支ナク記録シ得可キノ法ヲ考定セリ。然レドモ之ヲ世ニ公ニシテ以テ広ク裨益スル所アラントスルニハ素ヨリ小生一人ノ能クナシ得可キコトニ非レバ聊カ新聞ノ余白ヲ汚シテ小生ガ微衷ヲ記シ、江湖同志ノ士ト共ニ与ニ研究センコトヲ謀ラントス。諸君幸ニ賛成スル所アレ。」

 この楳の家元園子、実は田鎖綱紀の戯号で、「日本傍聴記録法(ジャパネースホノグラフヒー)」という文章です。  田鎖綱紀が1882年(明治15年)というタイミングで「日本傍聴記録法」を発表したところに、時代の要請を強く感じます。田鎖綱紀は先の思い出話しのなかでたまたま手にした雑誌や、自分の先生の元に送られてきた手紙をたまたま見て、速記に興味を持ったように書いていますが、「日本傍聴記録法」には

「・・・・・此法ヲシテ他日必ズ我邦ニ使用シ裨益スルコトアラントノ念慮ヲオコシタルハ恰モ明治五年ノ頃ニシテ・・・・・」

という文があり、やはり公の益に供することになるのではないかといった何らかの予感があったのだろうと思います。というのも1868年(慶応4年)、つまり明治元年ですが、これからどういう国づくりをしていくべきなのかということを示した「5か条の御誓文」が発表されました。その第1条は非常に有吊な文句で

 「広ク会議ヲ興シ万機公論ニ決スベシ」

とあります。これは現在の我々が考えるような自由平等の民主主義を標榜したものではありませんが、この一文から後の自由民権運動へとつながっていったことは確かでしょう。

 1874年(明治7年)に江藤新平、板垣退助、後藤象二郎、副島種臣らが愛国社を設立し、民選議員設立建白書を発表しました。途中西南戦争をはさみ、1881年(明治14年)板垣退助が自由党を結成。そして同年1890年を期した国会開設の詔が発せられるわけです。「日本傍聴記録法」発表前年の出来事ですね。
 しかし残念ながら田鎖綱紀が「日本傍聴記録法」を発表して、すぐに速記の技術が普及したわけではないようです。そこにはやはり多くの先人達のご苦労があったようです。

速記実用化への動き

 田鎖綱紀が「日本傍聴記録法」を発表したその年の1882年(明治15年)に日本傍聴筆記法講習会が始まりました。この講習会で田鎖綱紀から直接講義を受けた受講生の中から、後に日本の速記を実用的な技術レベルにまで高めることに貢献した、若林玵蔵(わかばやしかんぞう)、林茂淳(はやしもじゅん)、市東謙吉(しとうけんきち)、酒井昇造(さかいしょうぞう)らが巣立っていきます。

 しかしこの速記の技術を習得して、すぐに数々の速記録を残していったかというと、そうではありません。私たちの多くが、中学校、高校あるいは大学に入っても英語を勉強し続け、文法は分かるし単語も結構知っていながら、一向に英語を話せるようにならないのと同じです。

 当時の新聞業界は、大隈重信と矢野文雄が買収した立憲改進党系の郵便報知新聞と、福地源一郎(櫻痴)が社主を務める立憲帝政党系の東京日日新聞がありましたが、自由新聞とは1881年(明治14年)に板垣退助が結成した自由党の機関紙です。ですから若林玵蔵に速記の依頼をしてきた郵便報知新聞と自由新聞とは敵対関係にあるわけです。

 若林玵蔵はようやく実地応用の経験を積むことができたわけですが、なんともまあ、ご苦労様でしたと言いたくなるような速記者デビューでした。こうして徐々に速記の技術も向上し1890年(明治23年)の第1回帝国議会に速記が採用されるということにつながるわけですが、実はその前に日本の速記にとって、非常に重要な2つの出来事がありました。おそらく帝国議会で速記が採用されたこと以上に、一般大衆に対して速記が認知されるきっかけになったのではないかと思われます。

帝国議会と速記

1881年(明治14年)に、1890年(明治23年)を期した国会開設の詔が発せられたことは前にも述べました。この帝国議会における速記の採用について大きな貢献をした人として金子堅太郎が挙げられます。

 金子堅太郎はハーバード大学法学部で法律を学び、伊藤博文の側近として大日本帝国憲法や皇室典範などの起草に関わった人です。ハーバード大学時代同宿だったのが、日露戦争のポーツマス条約調印や関税自主権の回復を求めた日米通商航海条約の調印を果たした小村寿太郎でした。また金子堅太郎は専修学校(現専修大学)の創設に関わったり、日本法律学校(日本大学の前身)初代校長、二松学舎専門学校(現二松学舎大学)舎長なども努めた人です。

 国会開設の詔が発せられた当初から、会議の内容をどう記録に残すべきかということが懸案となっていたようです。もちろん記録の件だけでなく、そもそも「国会」ということ自体うまくイメージできなかったのではないでしょうか。何せそれまでお殿様の一声で何事も決まってしまうような国でしたから、「広ク会議ヲ興シ万機公論ニ決スベシ」と言ったって、何をどうすればいいのか、さっぱり分からなかったのではないでしょうか。

 記録ということで言うと、当時の会議は書記官が要点をメモ書きして、それを後から思い出しながら文章にしていくという方法です。ですから実際の発言とはニュアンスが違ってしまったり誤解が生じたりということもあったようです。

 寺島宗則は西洋の速記についてどこからか聞きつけ、金子堅太郎に調べるように指示しました。欧米の書物で速記に関する本を調べたのですが、田鎖綱紀と違い金子堅太郎にはチンプンカンプン。どうも日本語に速記というのは無理じゃないかという報告をしています。

 そうこうしていううちに、あっと言う間に数年が過ぎ、1889年(明治22年)大日本帝国憲法発布です。第1回帝国議会を翌年に控え、下品な言い方ながらケツに火が付いたのでしょう。金子堅太郎は伊藤博文に対して欧米の議会を視察に行かせてくれと頼み込みます。イギリス、フランス、ドイツ、オーストリア、イタリア、アメリカ。どの国の議会を見ても速記を使用していない国はありません。帰国した金子堅太郎は山県有朋総理大臣に対し速記の採用を進言しています。

 そのころ日本の速記は既に「経国美談」や「怪談牡丹灯篭」などで、かなり知れ渡っていました。しかしながら何といっても天下の帝国議会ですから、幽霊話しを書くわけではありません。本当に日本の速記技術が帝国議会の記録手法として耐えうるものなのか、当時の為政者にとっては心配だったに違いありません。速記法研究会を主宰していた若林玵蔵や、若林玵蔵と同じく田鎖綱紀の日本傍聴筆記法講習会を卒業して、元老院書記生となっていた林茂淳に対して質問が寄せられます。

一、両院に速記者を採用するとすれば人員幾何吊を以て満足なる結果を得べきや
二、速記者の採用方法及待遇
三、速記に要する器具
四、議場に於ける速記者の座席
五、速記の過失に因りて生じたる誤謬正誤方法
六、官報局と速記録の関係
七、速記課長、校正者、校閲者、雑務係
八、速記起草係と写字生並校閲者との関係
九、速記者の病気欠席等の場合に於ける補欠方法
十、議長の聴取せざりし議員の発言

それにしても細々とした点にまで質問が及んでいますが、速記を採用した場合の具体的なイメージを何とかして掴もうとしていたことが分かります。